子どもの頃に読んだ本を大人になって読み返すと、当時と全く違った印象を感じた経験はありませんか?
コモにとって、今回取り上げる芥川龍之介の「羅生門」がそうでした。
当時中学生の私が、国語の授業で読んだ羅生門は、話の情景が醸し出す不気味な雰囲気が印象的でした。
しかし、大人になって読み直してみると、主人公の心の移り変わりがとても鮮明に理解できます。
読めば読むほど人間のエゴやモラルについて考えさせられる羅生門。
「他人を蹴落として生きていくことの是非」「善とはなにか」など、人間の永遠の問いを私たちに問いかけてきます。
・人間の善悪について考えたい!
・重厚なストーリーを、手軽に読みたい!
・芥川龍之介の作品に興味があるけど、どれから読んでいいかわからない!
あらすじ
時は平安時代。飢饉や辻風(竜巻)などの天変地異が打ち続き、都は衰微していた。
Wikipediaより
ある暮れ方、荒廃した羅生門の下で若い下人が途方に暮れていた。
下人は数日前、仕えていた主人から解雇された。
生活の糧を得る術も無い彼は、いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、どうしても「勇気」が出ない。
下人は羅生門の2階が寝床にならないかと考え、上へ昇ってみた。
するとそこに人の気配を感じた。
楼閣の上には身寄りの無い遺体がいくつも捨てられていたが、その中に灯りが灯っている。
老婆が松明を灯しながら、若い女の遺体から髪を引き抜いているのである。
老婆の行為に激しい怒りを燃やした下人は刀を抜き、老婆に襲いかかった。
老婆は、抜いた髪で鬘を作って売ろうとしていた、と自身の行いを説明する。
さらに彼女はこう続ける。「抜いた髪で鬘を作ることは、悪いことだろう。だが、それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。ここにいる死人も、生前は同じようなことをしていたのだ。今自分が髪を抜いたこの女も、生前に蛇の干物を干魚だと偽って売り歩いていた。それは、生きるために仕方が無く行った悪だ。だから自分が髪を抜いたとて、この女は許すであろう。」と。
髪を抜く老婆に正義の心から怒りを燃やしていた下人だったが、老婆の言葉を聞いて勇気が生まれる。
そして老婆を組み伏せて着物をはぎ取るや「己(おれ)もそうしなければ、餓死をする体なのだ。」と言い残し、漆黒の闇の中へ消えていった。
下人の行方は、誰も知らない。
次々と移り変わる下人の心
まず、なんといっても「羅生門」最大の見どころは、主人公である下人の心の移り変わりです。
時系列に沿って、主人公の主な心の流れをまとめてみましょう。
① 得体のしれない老婆への恐怖
② 老婆の行為に対する、正義感に伴う怒り
③ 老婆の命が自分の手中になるという支配欲
④ 老婆の話を聞き、再び沸き起こる正義感
⑤ 生存のため、老婆と同じく悪に染まることを決めた利己心
大雑把だが、本筋はこういったところでしょうか。
上記以外にも、正義と悪の狭間でゆらぐ心の葛藤や悲壮感、そして老婆に対する憐憫の気持ちなども合間に見え隠れしています。
下人の心はグラデーションのように、物凄いスピードで変わっていくのです。
下人の心の移り変わりに注意して読んでみると、新たな発見があるね
生存本能と倫理観
善悪の間で葛藤していた主人公ですが、最終的には老婆の着物を奪い、悪の道を選びます。
今の言葉でいえば「闇堕ち」でしょうか。
「他人を蹴落としてでも生きていく」ことは現在の道徳や倫理観から考えれば、もちろん紛れもない「悪」です。
しかし、そういった善悪のモラルだけでは、安易に説明できないことがある気がします。
たとえば、自分が窮地に立たされた時に、他人を貶めることを生存本能のせいだと考えるとどうでしょうか。
突然ですが、私が小学生の頃、友達が田んぼで捕まえた2匹のイモリを、同じ水槽で飼っていました。
元気に泳いでいた2匹、しかし一晩明けると、水槽の中のイモリはなんと1匹になっていました。
「おそらく共食いをしたのだろう」と友達は寂しそうに呟いたのを覚えています。
生物学的にみると、極限の状態に陥った動物は、同じ種であっても相手の命を奪うことがあります。
残念ながら、それは人間も同じなのかもしれません。
食うために老婆の着物を奪った、下人の生々しい行為も、その一つなのでしょうか。
しかしその反面、貧しくても犯罪に走らず、自ら命を絶つ人がたくさんいることも事実です。
「人を蹴落としてでも生き抜くか、はたまた人さまに迷惑をかけないために飢え死ぬか」
そこにはエゴイズムやモラルなど、一概には結論づけることができない土台での議論が試されていて、未来永劫、答えが出てこない永遠の生きることの課題のような気さえします。
自分が下人だったら、いったいどうしていただろう…
下人と老婆の決定的な違い
下人が、老婆が犯した行為を聞いて「それなら私も」と、またその老婆に対して犯罪を犯したことは、一見順当な流れのようにもみえます。
しかし下人と老婆の圧倒的な違いは「被害を与えたものが、生者か死者か」ではないでしょうか。
老婆は死人の髪の毛を抜いてかつらを作ろうとしました。
しかし、下人は生きている老婆の着物を奪いました。
実は「羅生門」は元ネタが存在します。
芥川が本作の着想を得たのは、平安時代の「今昔物語集」です。
この時代の刑法や司法の詳しいことはわかりませんが、生きている人に危害を加えるのは、見つかればもちろん現在と同様に罪に問われることでしょう。
しかし下人は葛藤した末に罪を犯してしまいました。
老婆の行為を擁護する気はさらさらありません。
しかし、生きている人の幸せを奪うことは死者への冒涜よりも罪深いと私は思います。
(ちなみに死者に危害を加えることは、現在は死体損壊罪という犯罪です)
昔は、死者を崇めるべき対象だったり、得体のしれないものとして今以上に忌み嫌われていたのかもしれません。
何が正しいか、何が間違いか。
考えても考えてもわからない問題を取り扱う羅生門。
絶対的な正解は存在しないことは、テーマは違えど森鴎外の「高瀬舟」を思い出し、当時の日本文学の深さを改めて痛感しました。
(補足)さまざまなメディアで「羅生門」を味わう
「羅生門」は芥川の中でおそらく一番有名な作品であり、さまざまなメディアで展開されています。
たとえば、黒澤明氏の映画は有名ですね。
個人的におススメなのは、You Tubeにアップされている、ナレーターである窪田等さんの朗読です。
窪田さんと言えば、「ニンテンドースイッチです」のナレーションが有名ですね。
声に艶があり、かつクセもなく、自然と作中の世界に入り込むことができます。
これが無料で聴けるとは、本当に良い時代だね!笑
また、直接関係はないかもしれませんが、私が「羅生門」と聴いて最初に思い浮かべるのは、学生の頃に聴いていたヒップホップアーティスト、般若の「羅生門」という曲です。
まさに生きるか死ぬか、鬼気迫る勢いが痛く伝わってくる曲です。
サビの最後には「どこの誰が、何、ほざこうが、生きろ」という力強いメッセージ。
それは、人を蹴落としてでも生きることを選んだ下人の勇気とリンクしている気がします。
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