「蜘蛛の糸 / 芥川龍之介」感想!~縦軸で展開される無理ゲー~【書評・要約】

芥川龍之介の蜘蛛の糸

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、至って短く、まるで童話のような話です。
みなさんも、大まかなあらすじはご存じではないでしょうか。
芥川の短編作品のなかでも、ダントツに読みやすい作品なのは間違いありません。

私、コモは「蜘蛛の糸」と聞くと、子どもの頃にテレビで見たNHKの人形劇を思い出します。

なんだか懐かしくなって検索してみると、なんと公式で動画が見れるではありませんか!
そして、今見ても相当不気味です。夢に出てきそう…。

コモ

今の子供が見たら泣くでしょこれ!笑

考えてみると、私が幼い頃に見たこの人形劇を覚えているということ自体、ある種のトラウマのせいだったのかもしれません。
ただ、人形劇verではカンダタの相棒が登場したり、なにかと原作と違う部分はあります。
物語の本筋は原作に忠実ですが。

さて、本作の教訓として真っ先に思い浮かぶのは、「自分だけが幸せになろうとする傲慢な態度は慎むべきだ」です。

しかし大人なってから改めて原作を読んでみると、カンダタに対するお釈迦様の姿勢など、色々な違和感を感じてしまったのです。

この本はこんなアナタにおススメです

・芥川龍之介の作品を読みたいけど、どれから読めばいいかわからない!

・子供の頃に読んだけど、大人になってもう一度深読みしてみたい

目次

あらすじ

釈迦はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだった。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは、この糸を登れば地獄から出られると考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって大声で「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。」「お前たちは一体誰に聞いて登って来た。」「下りろ。下りろ。」と喚いた。その途端、蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。
無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈尊は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。                   Wikipediaより

糸が切れなかったifを考えてみる

大人の悪いところの一つに、「何事も理屈で考えてしまうこと」があります。
児童向けの文学作品を、理屈で考えるのは野暮かもしれません。
それでもやっぱり「もしも〇〇だったら」と色々妄想することは楽しいですね。

たとえば、悪人であるカンダタが、地獄で改心をしていたとします。
自分の後に続いて糸を登ってきた罪人に、「降りろ!」と喚かずに、もし「一緒に登って極楽へ行こうぜ!」と言っていたらどうなっていたでしょうか。
まあ、事態はかなり深刻になっていたに違いありません。
「こんにちは!」と極楽にわらわらと昇ってくる罪人たち…。
まるで極楽が地獄絵図に。
お釈迦様はさぞかし慌てふためいたでしょう。
解決法として、カンダタだけが極楽に辿りついた時点で、お釈迦様はすかさず糸を切ったことも考えられます。
お釈迦様の目前で、寸前の所で真っ逆さまに落ちていく罪人たち…。
ある意味衝撃的で凄惨な描写だし、いくら罪人とはいえ、それはそれでお釈迦さまもちとやりすぎな気もします。

コモ

なんだかカンダタが、悪いヤツで良かったとさえ思っちゃうね…。

「もしも」な妄想は、物語を破綻させてしまいますが、やっぱり面白いですね。

はたして神の道楽か

「羅生門」でも取り上げましたが、人間は極限の状態に陥ると利己心(エゴ)に苛まれてしまいます。
私たちは、カンダタの行為を反面教師として捉えて学びます。
しかし、実際に自分が同じ立場なら、おそらくエゴや生存本能ゆえに同じ行動を取ってしまうかもしれません。
登っている時に、まさか「極楽の蜘蛛の糸、100人乗ってもだいじょーぶ!」だとは知らないし…
そう考えると、全てを見越していたお釈迦様の「道楽」だったのでは、とさえ勘ぐってしまいます…。

私がこの物語自体が「お釈迦様の道楽」だと考えた理由がもう一つあります。
それは、大人になって読み返してみて一番印象に残ったことが「極楽と地獄のギャップの描き方」だったこと。
話の序盤、朝の極楽でお釈迦様は幸せそうに蓮池の周りを散歩して、優雅なひと時を楽しんでいます。
しかし、池の底に見えるのは、灼熱の炎が轟轟と燃え上がる恐ろしい地獄と、そこで悶え苦しむ罪人たち。
それをお釈迦様が、安全な遠い場所からそっと観察しています。
そんな絶対に超えられない境界線の描き方が、子供の頃に読んだ時と比べ、より一層甚だしく感じました。

糸が切れてカンダタが落ちていった話のラストも同じです。
次の瞬間には、場面はまた何事もなかったかのような極楽に戻る。
そこで語られる極楽の描写が、これまた素っ気ないほど優雅なのです。
「極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことにはとんじゃくいたしません。」
「極楽ももう昼に近くなったのでございましょう」

あんなにカンダタの壮絶な一件があったのに、どうしてこんなに穏やかな、虚しい一文で幕を閉じるのでしょう。

コモ

急に物語が終わって、なんだかあっけにとられたよ…


私は芥川が教訓として言いたかったのは、必ずしも、「傲慢な気持ちへの警告」だけではないような気がします。
それはある種の地獄をもてあそぶ極楽への批判、あえて言えば「貧富や身分の格差へのアンチテーゼが隠しメッセージだと理解するのは、少し大胆すぎるでしょうか…。
私は、「上下」の縦軸で展開されるこの物語が、より一層それを裏付けている気がしてやみません。

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