私たちは、「社会」が決めたルールや倫理観のなかで、日々生活しています。
非常識に振る舞うと周りの人が黙っていないし、場合によっては法で裁かれます。
私たち人間は社会的な動物で、他者と繋がって生きることは避けて通れません。
自分が属しているコミュニティのなかで助け合い、社会と上手く付き合っていかなければなりません。
イギリスの小説家、サマセット・モームによる作品「月と六ペンス」は、そんな私たちの常識を揺さぶる長編です。
このタイトルの「月と六ペンス」…。とてもインパクトがありますね。
しかし、実はタイトル自体は直接物語には関係がなく、月も六ペンスも作中に登場しません。
「月」と「六ペンス」は一体何を意味しているのか。
実は、モームは「月」を「常識が及ばないもの」、そして「六ペンス」を「通俗的なもの」の象徴としてこのタイトルをつけたと言われています。
周りの常識に囚われず、「この世界の根源とはなにか」という問いを、生涯をかけて追求した芸術家を巡る物語。
私たち人間を突き動かす好奇心や探究心をとことん追求したがために、周りの社会や人々を犠牲にしていった芸術家の、壮絶な生き様が描かれています。
・人間が生きる意味について、思いを巡らせたい!
・芸術家の生きざまを、追体験したい!
あらすじ
新進作家の「私」は、知り合いのストリックランド夫人が催した晩餐会で株式仲買人をしている彼女の夫を紹介される。特別な印象のない人物だったが、ある日突然、女とパリへ出奔したという噂を聞く。夫人の依頼により、海を渡って彼を見つけ出したはしたのだが…。
光文社古典新訳文庫「月と六ペンス」裏表紙より
偉大な芸術家の数奇な軌跡
本書は作家である主人公が、孤高の芸術家の“チャールズ・ストリックランド”と出会い、彼の数奇な生涯を追っていく物語です。
ストリックランドは妻と子供2人の4人家族。
株式仲買人の仕事を行い、ロンドンで生活しています。
ストリックランドは生活に不自由もすることのない、ごく一般的な家族のお父さんでした。
しかし、彼は何の前触れもなく、突如、家族や家を捨て、パリへと出ていきます。
動機はただ一つ、「絵が描きたかった」という強い意志。
家族も仕事も失った彼は、よれよれのスーツを身にまとい、ボロいアパートで淡々と絵を描く生活をはじめるのです。
その後のストリックランドの生活は、破天荒そのもの。
病気になった際、看病をしてもらった友人の奥さんを寝とった挙句、その奥さんが自殺。
そして、急に思い立ったようにタヒチへと向かい、山奥で隠遁生活をはじめます。
最後まで絵を描き続け、ついにはらい病にかかり命を落としました。
ちなみに生前中の彼の絵に対する評価は散々なもので、死後になってから世界的に評価され、有名になります。
いうなればゴッホと同じだね
ともかく彼の生きざまは、まさに人の常識からはずれたものだったのです。
人は誰もが衝動の種を持っている
臨床心理学者の河合隼雄は、「人にとって一番生じやすいのは、180度の変化である」という言葉を残しています。
みなさんは、ヘビースモーカーがある日を境にきっぱりタバコをやめてしまったり、やんちゃな人が急に僧侶になったりしたことをテレビなどで聞いたことはありませんか?
彼らが何を感じて180度転換したかは人それぞれですが、ストリックランドが急に画家に転身したのも、そんな心理作用があったのかもしれません。
主人公がストリックランドに画家になった理由を聞くと「何が何でも描かねばならん」「川に落とされたら、溺れるか泳ぐかのどちらかだ」と答えました。
いつの間にか、彼は“芸術”という魅力的な荒川に落とされていたのでしょうか。
芸術家と常識
人間の真理を追究する芸術家が、社会や常識を逸脱することは理解できます。
所詮常識なんて、人間が協調して生きるために作ったルールにすぎません。
逆に社会に埋没していると、その社会を超えるような作品を作ることができないかもしれないです。
私自身、芥川龍之介の「地獄変」もそんな話だったのを思い出しました。
月並みな感想かもしれませんが、私たちが芸術作品を見てよくわからないと感じるのは、常識のフィルターを通して見てしまっているからなのではないでしょうか。
時には、現実や常識を俯瞰して見ることも大事なのかも…
生まれた場所を誤る人がいる
また、本書で印象的だった言葉に「生まれた場所を誤る人がいる」というものがありました。
みなさんは、旅先や出張先など初めて行った土地なのに、やけに懐かしく、不思議と心が落ち着いたことはないでしょうか。
私たちはそれを「第二のふるさと」や「心のふるさと」と例えたりします。
前世はここで住んでいたという感覚ともまた違う、理屈じゃ説明できない…。
ストリックランドにとって、それは紛れもなくタヒチでした。
このように、本書は奇才である芸術家の生涯を追う物語だけではなく、人間の真理に繋がりそうな気づきや、考えさせられるような哲学的な要素が随所随所に散りばめられています。
我々はどこへ行くのか
では、ストリックランドが絵画で目指した「境地」「世界の根源」とは、一体なんだったのでしょう。
本書のなかで、それは「宇宙の始まり」「創造」「聖なる郷愁」「畏怖」などと例えられています。
彼が病気になり、目が見えなくなりながらも完成させた最後の作品は、家の壁や天井一面に描かれていました。
鬱蒼と茂る木々に、裸の男女たちが歩き回っている「原始の姿」の絵。
それを見た者は、その神々しさに恐怖や畏怖の念を抱いたそうです。
ストリックランドは苦悶の末に宇宙の根源を垣間見たのでしょうか。
そして、この物語を書いた作者であるモーム自身も、そのような言葉では表現できないものを感じていたのかもしれません。
史実とは多少違うものの、ストリックランドのモデルだと言われているのが、フランス印象派の画家、ポール・ゴーギャンです。
ゴーギャンの代表作に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という絵画があります。
この作品もストリックランド同様、タヒチで作られ、大自然の中で生活するたくさんの裸の人々が描かれています。
それは、タイトルや絵の内容からして、まさにストリックランドが追いかけていたものではないでしょうか。
そして、あなたはこの作品を見て一体何を感じますか?
ストリックランドやゴーギャンは、絵画を通して宇宙の根源を私たちに伝えようとしていたのかもしれません。
コメント