突然ですが、完璧な容姿の人間はこの世に存在しません。
人は誰でも自分に、少なからずコンプレックスを持っているものですよね。
イケメン俳優だって美人の女優さんだって、何かしらの悩みは持っているはずです。
芥川龍之介の「鼻」はコメディタッチながら、コンプレックスを抱えて生きることの煩わしさや、どこまでも他人を陥れたくなる人間の本性を明らかにしています。
あらすじ
僧である禅智内供(ぜんちないぐ)は五、六寸(約15 – 18 cm)の長さのある滑稽な鼻を持っているために、人々にからかわれ、陰口を言われていた。内供は内心では自尊心を傷つけられていたが、鼻を気にしていることを人に知られることを恐れて、表面上は気にしない風を装っていた。
ある日、内供は弟子を通じて医者から鼻を短くする方法を知る。内供はその方法を試し、鼻を短くすることに成功する。
鼻を短くした内供はもう自分を笑う者はいなくなると思い、自尊心を回復した。しかし、数日後、短くなった鼻を見て笑う者が出始める。内供は初め、自分の顔が変わったせいだと思おうとするが、日増しに笑う人が続出し、鼻が長かった頃よりも馬鹿にされているように感じるようになった。
人間は誰もが他人の不幸に同情する。しかし、その一方で不幸を切り抜けると、他人はそれを物足りなく感じるようになる。さらにいえば、その人を再び同じ不幸に陥れてみたくなり、さらにはその人に敵意さえ抱くようにさえなる。
鼻が短くなって一層笑われるようになった内供は自尊心が傷つけられ、鼻が短くなったことを逆に恨むようになった。
ある夜、内供は鼻がかゆく眠れない夜を過ごしていた。その翌朝に起きると、鼻に懐かしい感触が戻っていた。短かった鼻が元の滑稽な長い鼻に戻っていた。内供はもう自分を笑う者はいなくなると思った。
Wikipediaより(一部省略)
芥川流ブラックコメディ
芥川のなかでも初期に書かれた本作は、軽快なタッチで描かれるコメディです。
雰囲気で言うと同年代に作られた「芋粥」に近いですね。
短編なのでサクッと読めるし(文庫版で11ページほど)、コンプレックスを持つ誰もが多少とも共感してしまう話です。
「鼻が長い人」はよくいますが、内供の鼻はなんと顎まで垂れ下がっています。
この長い鼻のために食事の時も弟子に長い板で鼻を持ち上げてもらいながら食べていたりして、日常に支障をきたしています。
そんなある日、弟子があるお医者さんから鼻を短くする方法を聞いて帰ってきます。
喜ぶ内供。しかしその方法が、また荒療治極まりないやり方でして…。
鼻を熱湯につけ、棒でたたき、出てきた油のような不純物を毛抜きで抜き取るという、なかなか恐ろしい治療法だったのです。
幸いにも内供の鼻は痛覚がないため、いとも簡単にやってのけ(プライドは多少傷ついたかもしれません)、一夜にして鼻は短くなります。
しかし「良かった良かった、めでたしめでたし」といかないのがこの話の真の恐ろしいところです。
翌日、なんと短くなった鼻を見て、弟子たちが前にも増して内供をバカにするではありませんか。
治った後でも、内供の鼻の印象は消えることはありませんでした。
人は、どこまでも他人をバカにしないと気がおさまらない生き物なのかな…。
ちなみに物語のラストでは、なんと内供の鼻がまたまた元通りの長い姿に戻ります。
「これでもう笑われることはないだろう」と内供が呟き、物語は幕を閉じるのですが…。
はたして本当にそうでしょうか?
一度ついた鼻の評判は、永遠についてまわってくるに違いないと私は思います。
コンプレックスからは逃れられないのか
近年、美容整形の技術が発達しています。
ぱっと見ただけでは整形した部位が全くわからないほど、美容技術の進歩は目覚ましですね。
整形をした人が幸せに生きていけるなら、勿論それは素晴らしいことです。
一方で、そもそも整形をしなくても、皆が幸せに生きることができる社会はできなかったのだろうかとも思ってしまいます。
そもそも、私たち一般人が描く「理想の姿」が存在すること自体、差別を生み出しているような気がします。
「目はパッチリ」「痩せているほうが良い」「ニキビがない方が良い」
こんなこと、普通の生活を営むだけなら本来はどうでもいい話なのに。
子どもの頃見たテレビ番組で、とあるイケメン俳優と巷ではブサイクと言われている芸人さんの写真を、とあるアフリカの国へ持って行き、現地の女性に「どちらと結婚したいか」というアンケートをとる酷いロケをやっていました。
今だとコンプライアンス的にアウトかもしれない企画ですね。時代を感じます。
結果は、なんと圧倒的な票差でブサイクと言われている芸人さんが勝ったのです。
アンケートをとった国の価値観では、どうやらたくましくて力強そうな男性が魅力的らしいようです。
「結局、価値観なんて相対的に変わるものだ。」と言いたいところですが、だからといって今からアフリカに移住なんて簡単にできませんよね。
結局私たちは、属している社会の「容姿のもの差し」で、永遠にもがかなければならないのでしょうか。
自分の容姿が気にならないならば良い気もしますが、「鼻」のように向こうから笑われたりすると、やはり並大抵のメンタルでないと傷つくでしょう。
あのお坊さんである内供でさえ、そうなのですから。
モラルを持った生き方を
かく言う私も、実は自分の顔に大きなコンプレックスがあります。
子どもの頃は、それが原因で結構いじめられました。
多感な青春時代には、もうこの世の終わりかと思うほど悩み苦しんだのを覚えています。
学生時代に好きな人に告白をして、いともたやすくフラれた時は、自分の顔や容姿を恨みました。
ついにはあの子を好きになった自分の心さえも憎みました。
果たして、私はあの子を好きにならずにいられたのでしょうか。
嗚呼、本当に容姿のカーストというものは、残酷だと改めて思います。
いけないいけない、「鼻」からだいぶ話がそれてしまいましたね。
もし、内供が現在に生きていたらどうでしょう。
少なくとも今は、内供が生きていた時代と比べると、道徳やモラルが重視されている時代です。
面前で笑われることは、まずないかもしれません。
しかしそうであっても、依然人々は長い鼻の内供を見て、心のなかでは嘲笑うでしょう。
そして、美容整形で内供の鼻が短くなってもそれは結局同じことなような気もします。
人を陥れたくなるのがどうにもならない人間の本性ならば、モラルをもって人前では自制することが、私たちができるせめてもの戒めなのかもしれません。
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