「早く孫の顔が見たい」
ご存知、親が子供に言う常套句ですね。
私、コモも実家に帰ると、母親にさんざん言われてしまいます。
言われるたびに、つくづく耳が痛くなります。
親の気持ちはわからないでもないのですが…。
しかしこの言葉、単に「可愛い孫の顔が見たい」という純粋な理由の裏に、ある重要なメッセージが隠されているのです。
それは今回紹介する、近内悠太さんの本「世界は贈与でできている」のテーマでもある「贈与」です。
「贈与」と聞くと、無条件で他人にモノをあげるようなイメージを連想しがちです。
しかし、あまり贈与の本質についてじっくり考えたことはないと思います。
「贈与」ってなんだか難しい言葉だね
2020年に発売され、一躍話題になったこの本。
私もこの題名に惹かれて気になっていたのですが、やっと読むことができました。
そして、読んだ後はいつもの世界が違って見え、あらゆる物事に感謝せずにはいられなくなりました。
とても不思議で印象的な本です。
・当たり前の日常に退屈な人
・周りの人の親切を煩わしく思う人
・お金で解決できる世の中を寂しく思う人
・ボランティアが好きな人、やってみたい人
・贈与はなぜ大切か
・毎日を新鮮に生きるにはどうすればいいか
・周りに感謝して生きるにはどうすればいいか
お返しはまた違う人へ
本書の最大のキーワードである「贈与」。
この本での贈与の定義は「お金で買えないモノやコトを人から人へ移動させること」です。
(対してお金での買い物は「交換」と表現されています。)
著者は、より良い贈与の条件として、当人に”お返し”ができないことを挙げています。
例えば、サンタクロースを思い浮かべてください。
子どもは成長すると、いずれサンタの正体に気づきます。
しかしその時には、プレゼントをもらったことが昔の出来事になってしまっていて、お返しができません。
献血などもそうですね。
輸血を受けた人は血液の送り主が誰かわかりません。
このように、”お返し”ができないのは、贈り主が不明なことや時間的な理由など、さまざまな要因があるといいます。
なんだかもらってばかりだと、申し訳ない気がするなぁ
では、この「返せなかった恩」は一体どうすればいいでしょうか。
贈与を受けた当人は、その”うしろめたさ”に贈与を他の誰かに渡さずにはいられなくなります。
そんな「人から人への贈与」が世界を巡り巡っていくのが、資本主義では説明できない、人間特有の愛のモデルかもしれません。
それでも贈与と聞いても、普段の実生活にはあまり縁のないものだと思うかもしれません。
しかし実は私たちは知らないうちに贈与の輪のなかに参加してると著者は言います。
「孫の顔が見たい」に隠されたメッセージ
著者は、私たちのほとんどが経験する贈与として「子育て」を挙げています。
親から子への愛情は、「無償の愛」と言われるほど偉大なものです。
子はそんな親の愛情を、当たり前のものとしてすくすく育っていきます。
しかし時が経ち、独り立ちした子は「子育て」という贈与を親に返しようがありません。
(介護や仕送りというカタチで多少はお返しすることはできますが…)
そんな返せなかった贈与を、子はまた自分の子へと愛情というカタチで与えていかざるをえなくなります。
そして「早く孫の顔が見たい」と親が執拗に言うワケは、自身が過去に子に施した「子育て」という贈与が果たして上手くいっていたのかどうか、半ば無意識に確かめたいがための言葉だと著者は言います。
私はカフェでこの一節を読んだとき、両親との幼少の頃の思い出が色々と蘇り、危うく泣きそうになりました。
時を超えて私は改めて親の愛情に気づきなおすことができたのです。
そうか!僕は親から、たくさんの贈与を受けてきたんだ
(でも私が感極まったのは、私自身が親の贈与に気づけたことだけではなく、贈与を受けたことを親に対して示せていない申し訳なさにも一理あると思います。私には子がいないのです)
世界と出会いなおす
私が親からの贈与に気づいたように、実はこの本の大半は「贈与をいかに行うか」ではなく、「受けた贈与にいかに気づけるか」に話を割いています。
自分が知らないうちに、贈与されたコトやモノが実は身の回りには溢れています。
先述したように、今こうして自分が生きていることも親のおかげです。
さらには、普通に生活をし、平和に生きていけることも知らない誰かの賜物です。
そんな”忘れられた贈与”に、改めて気づくためにはどうすればいいのでしょう。
私たちは、マンガや映画で非日常的な世界を仮想体験します。
特にSFやディストピアを舞台にした作品は、ハラハラドキドキするし、生命の危険やスリルを存分に感じたりします。
そして、本を閉じたり、映画館から外へ一歩出た時、目の前にある平凡な日常に改めて感謝した経験はないでしょうか。
怖い映画を見た後って、いつも以上に「生きててよかった」って思うよね
私たちの世界は、実は思っている以上に脆いのかもしれません。
改めてですが、今こうして平和に生きていれることも、あらゆる人の計り知れない努力によってできています。
そう思えると、改めてこの世界と出会いなおすことができるような気がします。
私たちは抱えきれないほどの贈与を知らない間に受けているのです。
当たり前な生活は実は異常
You Tubeにアップされていた対談で著者が言っていたことが印象に残っています。
「人間は、物事がないことにはよく気づくが、あることには感謝しない」
健康でいられること、衣食住に困らないこと、暴動が起こらないこと、それらは決して普通の出来事ではありません。
その一つ一つが紛れもない贈与であり、先人たちが積み上げてきたものです。
そう思えると、おのずと全方位に感謝したくなります。
家族にだって、赤の他人にだって、ペットにだって。
はたまた道端の街路樹にだって。
そんなことを考えていると、ふとピクサー映画の「ソウルフル・ワールド」を思い出しました。
この作品は、まさに”気づくこと”で、いつもの平凡な世界が輝いて見えるという物語です。
そして知らず知らずのうちに受けてきた贈与に気づけたとき、私たちはそのバトンをまた誰かに渡すことができます。
巡る贈与の輪を絶やさないことが、幸せな世界を作るカギかもしれません。
本の内容を伝えることは「知の贈与」
本書はマンガ「テルマエ・ロマエ」や、小松左京の小説、そして平井堅の楽曲など、さまざまな例を使って贈与の可能性を示してくれています。
なかには哲学者、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の話もあり、それらの要素が”贈与”に集約され、素人の私にも腑に落ちるよう、わかりやすく説明されていました。
読書によって知恵を身につけることも、いわば作者からの”知の贈与”です。
(もちろんお金を出して本を買う行為は単なる”交換”かもしれませんが、読書はさらにお金では換算できないものを手に入れることができると思います)
そして読者から作者へは、”知の返礼”は出来ません。
だからこそ得られた知識を身近な人に話したりして、シェアすることも新たな贈与につながると感じました。
もし、この記事を読んでいるあなたが、内容を他の人に伝えることは、紛れもない知の贈与だと思います。
まさに世界は贈与でできている。
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