明治の文豪、森鴎外の名作「高瀬舟」。
縁あって、中学校の国語の授業ぶりに読み返してみました。
そして、いつものようにブログに感想を書こうとしたところ、なんだか自分の意見がはっきりせず、ずっと思い悩んでいる自分がいます。
さらに、2度3度と読み返しましたが、これは永遠に答えが出ないのではないかとすら感じています。
自殺に失敗し、「早く殺してくれ」と呻き苦しむ弟を殺した兄は、果たして罪人なのでしょうか。
はたして、お上が決めた法律で裁いていいのでしょうか。
短い話なのに、とても重いメッセージが込められているよ。
・じっくり余韻に浸れるような本が読みたい!
・森鴎外の作品に興味があるけど、どれから読んでいいかわからない!
・人の死について、色々と考えてみたい。
あらすじ
舞台は、島流しの罪人を京から大阪へ連れていく高瀬舟の船上。
暖かく静かな月夜、弟殺しの罪で護送されている喜助は、罪人なのに何故か落ち着き払っています。
護送役の庄兵衛は、それを不思議に思い、訳を聞いてみました。
喜助は答えます。
「私の家はとても貧乏で、どれだけ仕事で稼いでも、手元には一銭も残らない生活をしていました。でも、お上は島流しの際にお金を持たせてくれたうえ、食事まで与えてくれるので、大変ありがたいのです。」
自分の生活と比べ、喜助がよっぽど「足ること」を知っていると感じた庄兵衛。
ますます喜助に興味をもち、罪人になった訳を聞いてみます。
「実は、私の弟は病気で寝たきりの生活を送っていました。ある日、仕事から帰ってくると、日頃の私の苦労をすまなく思っていた弟が、剃刀(かみそり)を喉に突き刺し自殺しようとしていたのです。しかし刺しどころが悪かったのか、一向に死にきれません。痛み苦しむ弟は私に、剃刀を引き切るように願います。「早くしろ!」と悶えるを気の毒に思った私は、ついに弟を殺してしまいました。」
庄兵衛は悩みます、「はたしてこれは罪といえるのだろうか…」。
お上が裁いていいものなのか、いよいよわからなくなったのでした。
我唯知足(われただたるをしる)
文中で、喜助は自分の日々の貧しい暮らしと比べると、今の待遇は罪人ながら非常にありがたいと言いました。
逆に言えば、それは喜助が普段から質素な暮らしをしていたからこそ感じることができたものです。
私は、ふと「我唯知足(われただたるをしる)」という言葉を思い出しました。
これは、京都の龍安寺のつくばい(水を汲む場所)に刻まれている言葉です。
人は、他人がもっているものに常に憧れ、物欲にとらわれます。
しかし、もし物欲を消すことができたら、今の自分の生活に満足し、穏やかな暮らしを手に入れることができます。
そして、欲しいものが手に入ったときの喜びも人一倍大きくなるでしょう。
罪人の立場になりながらも、喜助は自分が優遇されていると喜びました。
少し語弊があるかもしれませんが、倹約し、質素な生活を心がければ、身の回りの幸せが増えるというヒントだと思いました。
視点を変えるだけで、僕たちは満ち足りていると思えるかも
自殺ほう助は正義か悪か
さて、先述した通り「高瀬舟」が一番読者を思い悩ませるのは「死にたがっていた弟を殺した喜助は、罪人なのか」という、いわゆる“自殺ほう助”に関することです。
現在の日本は、自殺ほう助は犯罪です。
他人の命を奪うことに変わりはないからです。
そして、自殺ほう助と合わせてよく議論されるのが「安楽死」。
これは、病床で回復の見込みのない患者を、麻酔などの薬で苦痛を与えずに死に至らせることです。
これも現在の日本では犯罪です。
一方で、「尊厳死」は許されています。
尊厳死とは、患者の同意のうえで、延命治療を施さずに命を絶つというもの。
人間の尊厳を守るためにあるものです。
でも、そもそも「人間の尊厳」って、いったいなんなのだろうとも思ってしまいました。
そして、このような法律は、喜助が生きた江戸時代は一貫して”お上”が決めていました。
もちろん、一部の人間の意志だけで裁くことは、言s語道断だと思います。
でも、今の民主政治になっても、結局自身に降りかかるであろう大事なことなのに、各々が興味を持たずに、ないがしろにしていないでしょうか。
世界に目を向けると、実は安楽死を認めている国もあります。
スイス、ベルギー、アメリカの一部の州などがそうです。
人の死にまつわることを、国という線引きで分けていていいのかとも思いますが…。
いや、もっと根本的に「死を選ぶこと」で考えると、そもそも地球レベルでみると自殺する生き物は人間だけだろうし、同じ種を意識的に殺すのも人間だけです(共食いはあるでしょうけど)。
さてさて、悩めば悩むほど大風呂敷が広がって、いよいよわからなくなってきました。
倫理学、生物学、哲学…
これは色んな学問を股にかける問題だろうし、私自身もっと勉強しなればなと痛感します。
そして自分たちの死のあり方を、デリケートでタブーな話だと決して見て見ぬふりをしてはいけません。
僕たちは、もっと話し合わなければいけないのかも…。
ただ私は、死ぬ直前の弟も、島流しの舟の上の喜助も、「晴れやかな安堵の顔をしていた」ことが、全てを物語っているのではないかと思ってやみません…。
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